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学生の頃、熱中したのはボーイスカウト活動です。小学校3年生から大学卒業まで、足掛け14年間続けました。ボーイスカウト活動の柱は野外活動と奉仕活動で、地域社会の様々な行事にも積極的に関ります。
私は鼓笛隊の一員となり、愛知県下の多くのイベントに参加してきました。夏と秋は毎週のように各地へ出かけたものです。ある年の名古屋祭りでは、100人規模の鼓笛隊のリーダーになり、組織をまとめるという貴重な体験をさせていただきました。
また、日常の学生生活では触れ合うことのできない、世代を越えた地域社会の人々との繋がりを、肌で感じることも出来ました。今振り返れば、ボーイスカウト活動は、私の社会貢献の出発点でした。 |
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私と政治を結びつけたのは、旭丘高校時代の友人でした。当時、国会議員を目指していた彼から手伝いを頼まれた私は、政治というものを全く知りませんでした。そこで、政治のイロハを学ぶために、佐藤泰介参議院議員の選挙にボランティアとして参加したのです。それがご縁で、秘書にさせていただいたのは1998年のことでした。
友人を国会議員にしたい思いでスタートした議員秘書時代は、延べ9年間にわたりました。
辛いこともありました。最初、右も左もわからぬ私は失敗続きです。拘束時間は長いし、プライベートな時間はあってないような毎日です。指導を受けながら経験を積んでいきました。
しかし、次第に充実感を感じ、楽しいと思うことが増えていきました。若輩の身ではお目にかかれない偉い方々とお会いでき、貴重な勉強をしました。人の気持ちを推し量り、先手先手と準備していくことの大切さも学びました。
夢中で過ごした秘書時代に、転機が訪れたのは5年後でした。当時、公設秘書となっていた私は、催事や会議で議員の代理としてご挨拶をし、多くの方からさまざまの陳情をお聞きしました。その度に「私ならどう話し、どう行動するか」という思いが培われていきました。
秘書として汗をかく中で、政治への自分の思いを語り、行動する力を蓄えてきた日々でもありました。そんな折、議員にならないかというお話がありました。この一件が、議員になるという自覚を芽生えさせた人生の節目でした。
そして、2006年10月に名古屋市会議員候補として公認をいただき、2007年4月の統一地方選挙で西区で立候補。多くの仲間に助けられ、初挑戦ながら3位当選という予想外の結果を得られました。
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秘書時代と大きく変わったことは、見る側から見られる側になったことです。疲れていても、疲れた顔はできません。自分の判断が問われることのプレッシャーもあります。でも、それが嬉しい。
地域の方々から様々な情報が耳に入る。キャッチボールのように、一つ一つ対応していくうちに信頼が生まれる。「話し方が変わった、演説にもパワーが出てきたね」と言われることがあります。達成感を感じる一瞬です。 |
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私が秘書として勤めた佐藤泰介参議院議員は、教育問題のエキスパートとして有名です。佐藤議員の教えのもと、私も教育問題に深く関りました。たくさんの人と出会い、教育現場を肌で感じ学んできました。名古屋市会議員として「教育の山田」と呼ばれることは、私の使命と考えています。
同時に、名古屋市の施策は予算がついて初めて実現できます。財政を知らなければ、どんな構想も夢物語です。財政についても熟知して、人から教えを請われるような存在を目指します。
選挙期間中、一番多かった声は「若いのだから頑張って」でした。私は議員1年目に、名古屋市が新しく作った「子ども青少年局」に注目し勉強しました。子ども青少年局とは、国の厚生労働省のような存在です。医療費無料化や保育所問題など、教育以外の子ども達の全ての問題に対処する局です。この局の役割を深く知ることで、教育以外の問題が見えてきました。
私は教育だけでなく福祉、地域問題にも取り組みます。あれもこれも知りたい、学びたい。若いからできると信じて、エネルギッシュに行動していきます。 |
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